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患者様からの寄稿

イラスト2

「人生苦もありゃ楽もある」と考える人は、その通りの人生を送るし、「人生ろくなことしかない」と考える人は、実際に悲惨な人生を送る事になってしまう。人生の全ての出来事は、実は全て自分の心がつくり出している。というのが、今回患者様からご紹介頂いた「中村天風」さんの教えです。とにかく前向きでプラス思考な天風さんの世界を、是非人生の参考にして欲しいとの想いから原稿を寄せて下さいました。

「天風先生に習う」

SK生 様

本を読んで影響を受けた人は、中村天風です。
天風さんは若い頃、軍事探偵をされていた。日本版の007です。だから、あだ名は人斬り天風。度胸の据わった人だった。
その後、肺結核にかかられた。その治療の為、日本中の名医を訪ねられたが、もう手遅れで治療できないという返事だった。
それではという事で、アメリカからヨーロッパまで世界中の名医を訪ねられた。何処にも良い回答は得られなかった。
もう日本に帰国するしか方法が無いという時、インド人のヨガの達人にお逢いになった。
「おまえは右の胸に重い病を持っている、私について来なさい。」と云われ、ヒマラヤの山麓迄行かれた。
その先生の指導を受け、修業を3年ほど経つと、結核は完治したそうです。
普通のものを食べ、普通の生活をして、特別に薬を飲まず、結核が治ったそうです。
中国が文字の国なら、インドは精神の国ですが、私たちの体内には病気を治す力が備わっています。それを自分の心で不要な事を思って、自然に治るものを邪魔しているように思います。
ヨガの修業によって、心の中の邪魔物を取除くと病気は治るのだと思います。
透析は病気ではありません。私は透析を続ければ、充分天寿を全うする事が出来るのだと考えています。気持ちを整理して『病』にかからないように、後に紹介する本を参考にして下さい。
天風さんとヨガの先生のやりとりを一部
(運命を拓く 講談社文庫より抜粋)
それは私達が日常便利に使っている「言葉」というものである。
私はこの「言葉」というものを、そんなにも重大な影響を持っているものとは少しも知らなかった。
そして人生に関する学問をもう相当研究した後、しかもインドの山の中で、およそ文化からほど遠い民族の住まっている、あのヒマラヤの第三ピークのカンチェンジュンガの麓に住む、ヘプチヤ人種の一人から(もちろん、それは私の先生であったけれども)ある朝、「お前は毎朝、朝の挨拶のあと、俺はお前に“今日はどうだい”と聞くと、必ずお前は 〝I am not quite well〟 というなぁ。それをいってそのとき楽しいかい」 と、いわれた。
「いや楽しくはありませんけれども、真実こういう病を持っていますから、朝目が覚めますけれども快い気持ちでは覚めません。やっぱり何となく、こう、熱があるように感じ、体の全体がけだるく感じまして、頭は重いし、つまり快適な気分を感じません」 と答えると、
「そういうことをいってお前は気持ちが良いか」といわれました。
「気持ちは良くはありませんが真実そうでありますから」 と再び言うと、
「そうかねえ、お前は相当アメリカやヨーロッパで学問をしてきた人間だと聞いていたが、そういう方面に対する知識は全然ゼロだなあ」 という。
「それはどういう意味ですか」
「お前は自分の使っている言葉によって自分の気持ちが駄目にされたり、あるいは非常に鼓舞奨励されたりする直接的な事実を少しも考えていないなあ」 といわれました。
それは本当に考えていなかったから黙って顔を見ていたが、
「造物主によって便利な言葉を我々人間だけに与えられているが、言葉というものが、積極的に表現されたときと、消極的に表現されたときとでは、直接的にその実在意識が受ける影響は非常に大きな相違がある。
先ほどのように、今日は不愉快ですとか、頭が痛いとか、熱がありますとか、気分が良くない、とかいっているときには、愉快を感じないだろう。今日は嬉しいです、楽しいです、ありがたいです、という言葉をいったときには、なんともいえない快さを、その気持ちの上に感じるだろう。その感じるということは何が感じるか、お前はわかるか。実在意識が感じているんじゃないか。そして実在意識が感じたものが、直ちに潜在意識に直接的に影響して、そして潜在意識が実在意識と同じような気持ちになると同時に、神経系統の生活機能も同じように良くも悪くもなるのだ。そうすると結局、お前の生きる力が、その言葉の良し悪しによって、やはり良くも悪くもなるじゃないか」
「しかし本当に具合が悪いとき、具合が悪いといっちゃいけないんですか」
「具合が悪いとき、具合が悪いといって癒るか」
「いや、癒りはしませんけれど、やはり痛いときは痛いといいます」
「いや、痛いとき痛いというのがいけないんじゃないんだ。痛いときは痛い、痒いときは痒いという、それは当たり前のこと。だからいってもいい。だが重要なのはそういったときにそれから後を自分が考えなければよい」
「それはどういう意味ですか」 というと、
「お前は今日はどうも頭が痛いとか、今日はどうも熱がありますとかいっている言葉の後に、愉快だとは思わない、実に不愉快だ、たとえ言葉に出さなくても心の中で思っているだろう。なんともいえないいやな気持ちだなあ・・・と。
そして普段とちがって、よくない状態が体に現れてくれば、それを元にして痛いとか痒いとかいいながら、それが元でもっと悪くなりはしないだろうか、死にやしないだろうかというふうに、現実よりも過大に神経をつかいはしてないか。それがいけないのだ。寒いとか暑いとか痛いとか痒いとかいうことは構わない。それは現実に対する表現だから。それに対してお前はつけ加えなくてもよいことをしょっちゅう、つけ加えているじゃないか」
「いやしかし、それは普通の人間は皆そうでしょう」 と答えました。すると、
「普通の人間のことをいっているんじゃない!俺のところに来てこういうふうに毎日毎日真理を探究している以上は普通の人間じゃないんだ!まだ自分は普通の人間だと思っているのか、お前は!普通の人間はお前のように毎日毎日真理と取り組んで貴重な時間を過ごしちゃいない。毎日毎日くだらない人事、世事にせわしく働き、やたらとその言葉を汚し、実に、自分ならびに他人をも悪くするような言葉のみを終始使っているのだ。それは凡人のいうことだ。真理を探究している人間がそういう考え方を持つことは、非常に愧ずかしいことで、結局、極端に自己を侮辱していることになるじゃないか!もう少し俺はお前を賢明だと思ったが、あんまり賢明ではないなあ・・・」
といわれたときに、私は本当に恥ずかしい思いをした。
私の拙い文章では充分表現できません。
参考書を2冊紹介しておきます。

本 画像

省みて

天風先生の教えを聞く前の私は引っ込み思案で内向性で全てに自信がありませんでした。 天風先生の教えによって真理を悟った現在では、誰とでも、米国の大統領とでも、日本の総理とでも、対等に話が出来ます。
内容は宗教のようで敬遠される人がおられると思いますが、是非皆様にこの喜びをお伝えしたいと、筆を執らせて頂きました。

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