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仁成クリニック
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患者様からの寄稿

月・水・金に透析をされている松井濱子さんは透析歴30年以上、その人生は山あり谷ありと大変だったと思います。そしてこれからもいろいろとあるかと思いますが、今回はそんな松井さんと、ご主人の二人三脚での透析生活をほんの少しお話していただきました。

「私の『腎生航路』」

松井 濱子 様(72歳)

イラスト1

3月15日で72歳になりました。透析36年半を過ごしています。4年前、子宮ガンで子宮、左右卵巣全摘から急激に体調を崩し、パーキンソン病を併発してしまい、現在身の回りのこともままならず、もたもたしています。
どうして腎臓が悪くなったのかからお話するとあまりに長くなりますので、透析に入った頃からを少しまとめてみました。
35歳(一九七二年、昭和47年)の秋、10月17日、死の寸前で当時住んでいた東京練馬区の石神井から杉並区、中野区と救急車で新宿区の東京女子医大病院に運ばれました。
当時、現代医学では腎臓病は治らないから漢方薬と鍼(ハリ)で治すんだと、藁をもすがる思いで真面目に煎じ薬を毎日ドンブリに二杯ほど飲み続け、そして鍼に朝夕通いました。しかし、小水は100~200ccほどしかありませんでしたから、腹水は溜まる一方で、ついには肺もみえなくなる程で、呼吸も困難で首がカタンと落ちるほどの状態で、まさに死の寸前、強制収容されたというのが実際でした。幸いなことに女子医大のある先生を存じ上げていましたことから、太田和夫先生が直々に準備をして待っていて下さいました。

最初のやりとり

イラスト2

到着するなり、胸のレントゲン写真を撮りました。鎖骨だけがわずかに写り肺ほか下部は復水で真っ白でした。(このときの写真が『これが透析療法です』(太田和夫著:一九七四年版)の写真に掲載されています。
余談ですが、その後、医学生がぞろぞろ「水浸しになった患者の心不全音」ということで聴きに来ました。大学病院だなと思いました。 「このまま放っておけば10分ほどで死にます。救うには透析という手段がある。しかし今は高額で1回5万ほどかかる。毎週3回は必要だ。1回だけやってお金が続かないから止めるんだったら、可愛そう。このまま看取ってやる道もある。どうなさいますか?!」その時、夫は間に合いませんでした。それで付き添いの叔母が「透析に入るかどうかは後にして、とにかく今呼吸を楽にしてあげて下さい!」必死に願い出てくれました。
その後、夫が太田教授に呼ばれて、説明をうけました。
「透析は腎臓を癒す手段ではない。いくら透析を続けても腎臓が治るわけではない。生きている間は続けなければならない。費用は1回5万円ほどかかる。お金がないから、これで止めるというなら、始めからやらないほうが良い。他に待っている患者もたくさんいるし、ベッドも足りない。どうなさいますか!?」
当時、教員だった主人の月給を全部つぎ込んでも3回がやっとです。一ヶ月どころか1週間で終わりです。まだ国の援助が決まる以前でした。正に「金の切れ目が命の切れ目」だったのです。

夫・幹夫談

「どうなさいますか!?」と迫られて瞬時に計算が頭の中を駆け巡りましたが、どうしても「じゃ、やめます」とは言えなかった。たとえ借金をしてでも、続く限りは透析を受けさせたい。それで「透析をお願いします!」と申し上げ透析生活に入りました。
それが何と有り難いことか、護られていたというか、実費を払ったのは最初の2ヶ月ほどで、医療保険の法案が一九七二年10月に可決され、10月に遡って支払われることになり、支払った2ヶ月分が返金されました。以後その恩恵に与って現在があります。このことは今当然と思っていられる方が多いかと思いますが、感謝を忘れてはいけないと思います。

最初の処置

腹水を抜く→腹膜灌流(?)
ベッドに横にされて、太田教授が直接処置してくださいました。太い針のようなものを持って「ハイ、頭をあげておヘソを見て!」「ハイ」とおなかに力が入ったらブスっと穴があいて(ヘソの下に今もある)、そこから腹水が一千二百ccあふれて出ました。そこにチューブを差し込んで、腹膜灌流法でまる三日間、飲み水は一滴もとらず、毎日四千cc、計一万二千ccの腹水が抜かれ、ようやく呼吸が楽にできるようになりました。体もやや細りました。その時「呼吸ができる!って何と素晴ばらしいことなんだろう」と思ったことを今ももありありと思い出します。

その時の全身状況

イラスト3

に転じて両耳の下に親指大のコブ(節)ができました。結核性リンパ節でした。また同時に発熱38~39℃が続きました。腹膜灌流→内シャント透析へ 1ヶ月程、腹膜灌流しましたが、「腹膜炎」になり、腹水が濁ってきました。透析用の「内シャント」手術。透析に移行。 200ccほどあった尿量も殆ど0に。

透析室の状況

〈入室〉
今のような密閉型のダイアライザーではありませんでしたから、透析室全体に血液洗浄独特の「におい」がして、大きなトイレ室でした。今のように誰でも自由に入室は許されず、許可を得て、入り口で所定のサンダルに履き替え、マスク、白衣を着用後、消毒ゾーンを経て入室したものです。
〈ダイアライザー セロファン膜が主体〉
  • ★キール型;板状のセロファン袋(大きさの記憶は定かではないが、かなり大きかった?50~70cmの長方形)を挟んだ構造。血液流と洗浄液流を交換していたように記憶するが、これも定かでありません。〝まな板の鯉〟でしたから。
  • ★コイル型;大型から小型に移って、もう使わないから記念に貰っておけと言われたが、「そんなもの要らない」と断ったのが、今にして残念に思います。
    パック120循潅(直径20~25cm?)、EX‐01(小型直径15cm~?)は、いずれも使用前に漏れがないか「リーク検査」をして、OKならば接続するものでした。このコイル型は200リットルの洗浄液槽にひたして、ちょうど洗濯物を洗うようにして8時間透析、しかし効率が悪く、せいぜい2Kg 程の抜きではなかったでしょうか。ですから、必然的に日頃の水分摂取は厳しかったです。透析日は、比較的自由で砕氷なども置かれてありました。洗浄発散する尿素は部屋中に拡散し異様な空間でした。
日進月歩したスマートな密閉型のダイアライザーの現在からは想像もつかないことでした。

《10年頑張れ!》太田和夫教授が言われました。
「松井さん、10年頑張ってくれ。今我々死に物狂いでダイアライザーの研究している。10年経ったら、世界中どこでも行けるよ」  その通り、私も国内は勿論、イスラエルにも2回、聖地巡礼で訪問することができました。
そして現在、セロファン膜透析は、鉱石ラジオと同じ過去の遺物となり、省みられません。しかし、ここに大きな原点があったと思います。そして、密閉型ダイアライザーの時代に。今後さらにいつの日か。革命的腎機能回復の門が開かれるかも知れませんね。
「透析?そんな時代がありましたね」と言える日が来るよう期待しています。

穿刺前後

初期のころは、透析前後に毎回「採血」検査がありました。また、毎週、胸部レントゲンを撮りました。心胸比をチェックしていました。

〈穿刺前の麻酔とエラスター針使用〉
初期には現在のような上等な針がなくて、毎回穿刺する場所をまず麻酔して、次に皮膚を鋭いカッターのようなもので切り、そこに太くて長いエラスター針を刺して血液を取り入れていました。現在では痛み止めのシール、ペンレスがありますが、当時は毎回注射で痛みをとめて、太い針を刺していました。これも、いつしかなくなって現在のような優れものの1本で用が足せるようになりました。

食事管理

現在はかなり自由になりました。初期は、とても厳しく制限がたくさんありました。一番いやになるのが、毎日の3度の食事の「食品分析表」を提出することでした。だいたい真面目にやる人ほどノイローゼ状態で食欲もでず、亡くなっていかれた方が多かったです。そうでなくても、栄養分も全部では勿論ないですが,透析で排出されてしまうので、しっかり食べなければなりませんでした。家族からも、先生方からも「吐いても食べろ!」といつも言われていました。
初期には、熱が下がらず、食欲どころか、透析後は血圧が下がってゲーゲー吐くようなことも続いたことがあります。そんな苦しい時でも、「食べろ!10食べて9吐いても1は残る。食べなきゃだめだ!」と周囲の強制が、今になって有難い励ましでした。
基本的には、今も同じですが水分を取りすぎないこと。「これがあなたの今日1日の飲み水です」と、看護婦さんが蓋つきのお茶碗で200ccのお茶を運んでくださった当時が懐かしいです。主食、おかずを問わず、水分を減らしてカロリーを取る。必然的に揚げ物、クッキー、サンドイッチ、生クリームなどが出され、食欲の無かった私は、いつも吐いてしまうので敬遠気味でした。逆に、梅干し、塩漬けオリーブなどは、塩分過多といわれながらも食べるとすっきりしていました。
また、カリウムの管理が厳しく、果物が大好きだった私にはきつかったです。バナナでも、グレープフルーツでも絶対NGでしたし、アボガドはとんでもない!と飛び上るほど叱られました。実際、仙台時代に松島近くで懇親会の席で、海の幸がおいしくて、お刺身、貝類、蟹など嬉しくてパクパク食べていましたら、心臓が痛くなってきて、体がしびれてきて動けなくなってしまいました。それで透析の先生に電話したら、「大急ぎで帰って来い!」と怒鳴られまして、車を飛ばして帰りました。カリウムの異常値で心臓が停止する寸前だったんですね。大目玉をいただきました。他にも失敗談や貢献談などたくさんあります。
それでも、こうした試行錯誤の中から、食事内容も随分改善されてきたと思います。

《歩くに勝る健康法なし》太田和夫先生

入院はなるべく少なくして、通院せよ!

寝たきりだと筋肉の退化が激しく、歩行困難者になってしまうこと。また、病院としても空きベッドを待つ患者さんが多いので、できるだけ早く病院を出て、通いなさい!が通例でした。
私も女子医大で透析が始まったばかりで、結核性リンパ節がどんどん増えて、顔より首が太くなるほどになり、声も出ず、発熱して38~39℃もあるのに「どうして退院させるのか」とさんざんぼやいたことがありました。
でも、これもその通りでした。どこまでも自分の足で手で、歩き、作業できる。社会復帰ができる。これが目標なんですね。
良き先生方、看護師さんたちに囲まれて。

「松井さん、透析しながらでも天寿は全うできますよ。」須田先生、ほか。
また初期には、まだまだ対応が不十分であったことや、本人の気力、精神的な痛み、失望感から脱出できず、亡くなられた方々も大勢おられました。
「亡くなっていかれた患者さんたちこそ、私たちの先生でした。」現在女子医大の院長先生になられた東間先生ほか、尊い先人達の犠牲の上に光が添えられてきたということを、皆さんが語っていて下さいます。
その御蔭を蒙っての私たち患者です。本当に有難うございます。

波乱万丈を超えて

結核性リンパ節、乳がん、子宮がん、そして4年前ごろからパーキンソン病併発。もともとアレルギー体質で抗生物質が使えない。などとても語りきれない、ハプニングの連続でしたが、この3月、私たち「金婚式」を迎えることができました。人生の半分以上も、一見、透析や尿毒症、腎盂炎など病気の連続のようでした。しかし、健常者では知り得なかった、もっと別な豊かな人生の門を開かれたように思います。
いつもいつも「大勢の天使に囲まれ、生かされている感謝」で一杯です。
とても、まとまりもせず、お許しください。

*今回透析歴三〇年以上ということで松井さん夫妻に原稿をお願いしました。突然の申し出に快諾していただき有難うございました。本当に波乱万丈の人生で、ご主人も大変な思いをされたと思います。それでも前向きに生きようというお二人の思いに胸が熱くなりました。
当院には最近透析をはじめられた方から、十年目、二十年目の方々、多々おられますが松井さん夫妻に負けず『腎生』を謳歌してください。

クリニック待合室にて
ピカピカ笑顔の松井様ご夫妻
今と比較するとかなり厳しい医療技術、医療制度の中で、患者さんの頑張り、家族の支え、医師やスタッフが共に力を合わせ乗り越えたからこそ今の素敵な笑顔があるんですね!有難うございました!
院内で松井さんに出会ったらきっと皆さんにも色々、参考になるお話が聞けると思います!!

松井様ご夫妻 写真

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