患者様からの寄稿
仁成クリニックの藪野圭一様(月・水・金)より寄稿していただきました。
NHKの大河ドラマ“龍馬伝”に出てきた岩崎弥太郎とその弟、弥之助についてお話を致します。ドラマをご覧になった方は、坂本龍馬との関係はご存知と思いますが、二人は幼馴染で龍馬が一歳年上でした。龍馬は、長崎で「亀山社中」後の「海援隊」の隊長をしておりましたが、土佐藩経営の「土佐商会」の留守居役であった岩崎弥太郎から給料をもらっておりました。また、龍馬は弥太郎に度々お金の無心を言っていたようです。海援隊は、当時廻船業を行なっていましたが、龍馬の暗殺後は、彼の意思を継ぐかのように岩崎弥太郎は、世界航路を開き北海道の開発に着手し、その後も才覚と知恵を駆使して一代で日本の海運業を制覇しました。
「三菱」創業者の弥太郎は、享年52歳で胃癌で死去しましたが、16歳年下の岩崎弥之助が二代目三菱商事社長に就任しました。彼は日本初のビジネス街(丸の内)を開発したのですが、このときの有名な逸話が残っています。当時(明治20年代)の丸の内は、明治維新後、陸軍省・農務省・司法省や兵舎、練兵場などの施設がありましたが、明治25年に陸軍関係の土地を移すことになり、民間に一括売却する事になりました。土地面積は、約10万坪で、価格は当時の東京市の予算の三倍に当たる128万円であったそうです。あまりに高額で誰も手を上げる企業はなかったのですが、時の松方蔵相は弥之助に買取を依頼し、彼はこれを快諾して買い取ったそうです。購入後、残った家屋を取り壊し東京のど真ん中に壮大な平原が出現した。これを見たある知人が「こんな広い土地を一体どうなさるのか」と尋ねたのに対して、弥之助は「なに、竹でも植えて虎でも飼うさ」と嘯いたと伝えられています。
最後に、東京駅の表側を「丸の内」、裏側を「八重洲」といいますが、八重洲の地名の由来をご紹介します。オランダ人のヤン・ヨーステンは慶長5年(1600年)に徳川家康の招きで堺から江戸に上京し、家康から土地を与えられた。ヤン・ヨーステン邸からヤヨス邸、更にヤエスに成ったと言われています。