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阪神甲子園球場100周年


写真.1完成当時の甲子園大運動場

完成するまでの仮名称を「枝川運動場」。起工式が大正13年3月11日に行われ、同年8月1日に竣工式、完成予定の大正13年(1924年)が十干十二支の最初の組み合わせで縁起の良い甲子年(きのえねとし)だったこともあり、後に「甲子園大運動場」と命名。
これが甲子園球場の歴史のはじまりです。
今年8月に甲子園球場が100周年を迎えるにあたり、少しその歴史にふれてみたいと思います。
まず、甲子園建設に至る経緯ですが、第1、2回大会を豊中グラウンド、第3回大会以降を鳴尾球場で開催していた全国中等学校優勝野球大会でしたが、開催を重ねるごとに徐々に注目を集めるようになったそうです。
鳴尾球場はフィールドを2面設け、観客を5千 ~ 6千人収容する木造移動式スタンドを並べていたようですが、1923年の第9回大会準決勝の甲陽中(兵庫) - 立命館中(京津)戦において、観客がグラウンドになだれ込み、試合が一時中断する事態となったそうです。


写真2
(球場レフト側に鎮座する
モニュメン)

この事態を重く見た同大会主催の大阪朝日新聞は、阪神電鉄に対して本格的な野球場建設を提案。電鉄側も同年、武庫川改修工事によって廃川となった枝川(えだがわ)・申川(さるがわ)跡の開発の一環で運動場の建設計画を進めていたこともあって、双方の利害が一致し、球場建設が決定されたそうです。

当初は陸上競技場や球技場としても利用されることを念頭に設計されたため、グラウンドは三角形で、ポール際のコーナーが丸みを帯びるという形状で、中堅119ないし120m・両翼110mに対し左右中間が128mもあるという、現在の目から見ても過大と言えるサイズです。
1934年にはホームベースがさらに9mほど下げられており、同年の日米野球に出場するために球場を訪れたベーブ・ルースを「too large(デカすぎだ)」と驚かせたそうです。


写真3(以前の甲子園)

こけら落としは阪神間学童運動会で、同年夏から第10回全国中等学校野球大会が開催され、翌年の春には第2回全国選抜中等学校野球大会が開催、連綿と続く高校野球の聖地としての歴史の始まりです。

甲子園球場と言えば、“ツタ”ですが、大正13年の冬からコンクリート打ち放しの殺風景な壁面を飾る目的で球場外壁にツタが植えられたそうです。
それ以来、外壁一面を覆い、甲子園のシンボルとして球場の歴史と共に歩んできました。


写真4(現在の甲子園)
左側4月、右側5月撮影

球場のリニューアル工事に伴い一旦伐採されましたが、ツタの再生プロジェクトが行われ、現在も外壁に沿ってそのツルを順調に伸ばしています。
1929年2月には開場以来土あるいはクローバーなどの草が自生していた外野に天然芝が張られ、同年5月には「甲子園南運動場」が竣工して大運動場から陸上競技場と球技場の機能が分離され、同年7月にはアルプススタンドが増設、この時期に甲子園大運動場から「甲子園球場」に名称が変更された可能性が高いが詳細は不明です。

戦後は一時アメリカ軍に接収されていましたが、昭和22年(1947年)に解除され、春、夏の野球大会が復活しました。
高校球児たちの様々なドラマが生まれ、数多くのスター選手を送り出してきた阪神甲子園球場。
黒い土と緑の芝生が美しく、丁寧に整備されたグラウンドは、そこに立つ選手だけでなく、応援にかけつけた人たちの胸の中にも熱く刻まれます。
父親に初めて球場に連れていってもらった時のことを思い出します(焼き鳥が美味しかった・・・)。

甲子園球場は、全国高等学校野球選手権大会(夏の甲子園)および選抜高等学校野球大会(春の甲子園)という2大高校野球全国大会の試合会場となっており、大学野球の関西六大学野球連盟と関西学生野球連盟のリーグ戦の一部試合でも使用。また、2021年からは全国高等学校女子硬式野球選手権大会、決勝戦での試合会場としても使用されています。
野球以外では全日本大学アメリカンフットボール選手権大会の決勝戦(甲子園ボウル)が毎年開催されている事でも知られます。

そして、NPBセントラル・リーグに所属する阪神タイガースの本拠地球場であることは、皆さんご存じだと思います。
100周年という記念の年に入団した下村投手(西宮市出身)にはケガを治して是非とも頑張って甲子園を沸かせて欲しいと思います。

甲子園球場は球場南側に別館兼商業施設の「甲子園プラス」が開業するなど、「ボールパークエリア構想」の下で球場敷地と周辺環境との一体化が進められており、以前とは雰囲気の異なった施設へ・・・少し寂しい思いもありますが、新たな楽しみも盛り沢山ではないかと思います。
是非時間を作って球場へ足を運んで頂きたいと思います。

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